臨済宗妙心寺派 盛徳寺(文覚寺)沿革
応保2年(1162)
平安時代末期、応保2年(1162)の創建で文覚上人開基の寺と伝えられております。
往時をしのぶ「文覚上人像」と「文覚上人遺愛の石」を祀り、「文覚寺」の通称で呼ばれました。
文覚上人の俗名は遠藤盛遠といい北面の武士でしたが、故有って出家し文覚と名乗り那智の滝で荒行を修めています。上人は鎌倉幕府の成立に関わり、京都神護寺の再興にも努めました。また、この地において福井之荘の水利の整備を行い人々の生活の礎を築きました。
この寺は福井之荘の政所として長徳寺となりましたが、上人の没後は荘園の政所としての役を失い廃寺となっていきます。
元禄年間(1688~1704)
網干の豪商佐々木家の尽力で坂上長徳廃寺を蒙山祖印禅師が中興し、寺号を盛徳寺と改めました。
蒙山祖印禅師は網干岡部家の出身で、浜田の盤珪国師の弟子でした。禅師は文才に優れ、盤珪国師の伝記としては江戸時代唯一版本となった『盤珪和尚行業記』や魚吹八幡神社の銅鐘に神社の詳しい由来を交え銘文を記すなど地域に大いに貢献しています。
その後、住持が途絶えた時もありましたが、文政3年(1820)坂上村庄屋・三輪六右衛門が田地を寄進し、新たに住持を迎えています。
明治7年(1874)
江戸時代最後の住持が亡くなると、維新政府の寺院抑制の政策により無住無檀のため廃寺となりました。
明治29年(1896)
宍粟郡にあった「心光庵」の名のみを移転する形で再中興され、前川義柱尼が初代尼僧住職となりました。
昭和17年(1942)
盛徳寺の旧号に復し現在に至ります。
平成21年2月 姫路市教育委員会、網干地方史談会